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『未来社会?「華氏451度」の世界』

アメリカのSF作家レイ・ブラッドベリは1953年に小説『華氏451度』を発表した。その後、フランスの監督フランソワ・トリュフォーが映画化し、1967年に公開された。華氏451度というのは、摂氏になおすと約220度。これは紙が燃えだす温度である。この60年前のSFには、本というものの意味を深く考えさせるものがある。

ブラッドベリ描く未来社会では、本は見つかり次第、一冊も残らず焼却される。火事を防ぐ“消防隊”ならぬ、“焚書隊”が組織され、本を所持しているなどの通報があれば直ちに出動して、本を家まるごと(時には人も一緒に)焼却してしまう役目を担っている。この小説の主人公ガイ・モンターグは、この焚書官の一人である。

ある日モンターグは、自分の考えを素直に話す不思議な少女クラリスに出会い、心惹かれる。クラリスは秘かに本を読んでいたのだ。モンターグはまた焚書活動の最中に、本とともに炎の中に身を投じた女性の行動に衝撃を受ける。モンターグの心は揺れ動き、ついに本を手に取り読み始める。

焚書隊の隊長、ビーティはこう言う。「考える人間なんか存在させてはならん。本を読む人間は、いつ、どのようなことを考えだすかわからんからだ。そんなやつらを、一分間も野放しにしておくのは、危険きわまりないことじゃないか。」そして、モンターグの家に本があることを妻が密告し、焚書隊が到着する、モンターグは火炎放射器の炎を隊長に向け焼き殺してしまう。その場から逃走したモンターグにどのような運命が待っているのか?

この未来社会では、新聞・本などあらゆる活字が禁止され、人々のコミュニケーションは映像に限られ、画一的な社会が蔓延している。各家庭には大型のテレビジョンが壁に貼り付けられ、疑似家族の影像が放映され続ける。一人ひとりには、イヤホーンのような≪海の貝≫という超小型ラジオが与えられ、快い音楽やメッセージが絶え間なく流され続ける。瞬間の快楽を追い求め、自ら内省することなく“疑似的な幸福”にひたされている姿は、現代社会の様々な光景が思い起される。

ただ面白ければ良いという、つけっぱなしのテレビ、テレビに子守をさせて何食わぬ顔の親。スマートフォンを片手に、ひたすら指を画面の上で滑らせ、一人ひとりの“幸福”に沈潜している人々。ブラッドベリの未来社会に似ていないか? 発表当時、彼はテレビ社会の萌芽期に直面し、活字を遠ざける社会風潮に警鐘を鳴らしたのであった。このSFは今でもメディア社会への警鐘を鳴らし続けている。

読書とは心との対話である。一人ひとりは本を読みながら内省へと導かれ、考えを深めることができる。だからこそ、自分達の考えこそ正しいと思い、人にその考えを押し付けたいと願う人たちにとっては、大変都合の悪い事なのだろう。挙句の果てに、あらゆる本を焼却し、人の目に触れないような社会を妄想する。これが『華氏451度』の世界と言える。

一人ひとりが自ら考えなくても良い社会とは、人々の幸福とはまったく逆の社会ではないだろうか。言葉を拠り所に、自らの考えを読書によって深めていく、これが人を幸福へと導いてくれる重要な道筋なのだと思う。

こども学科 講師(司書教諭課程) 阿部 峰雄

『未来社会?「華氏451度」の世界』

2014.09.05

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